小杉町は、江戸時代(1958年)に戸破村と三ケ村の間に
加賀藩から町立てを許されて作られた宿駅で、明治までは小杉新町といいました。

砺波・射水郡奉行所があったので、加賀藩の役人が常駐し、文人墨客の往来も
盛んでした。
交通の要地 として商業も大いに栄え、京都や江戸の文化に接する機会に
恵まれていました。

小杉新町には技術的に優れた左官が多く住み、
近隣の町や村では「小杉壁屋」として評価されていました。

小杉左官に関する文書で一番古いのは、寛政二年(1790年)の覚え書きです。
「諸用翰写併聞書留」(しょようかんうつしあわせききがきとどめ)という竪帳の中にあります。
以下はその覚え書きです。



    覚 / 一、 壱匁八分  弐番作料 
           右手位見届手間料相極申処相違無之候
           寛政二年戌
           正月廿五日           堀越吉左衛門 角印  
                              堀越源兵衛   角印  
                   左冠 次助殿 
           右は小杉新町かべぬり又右衛門倅位附書之写シ 
    
  これは技術検定書で、「弐番作料」とは二級の職人に与える工賃のことです。
  加賀藩の左官の最高役人である左官肝煎「堀越吉左衛門」らが、
  小杉左官の棟梁「次助」にあてた文書です。
  同年同日に棟梁次助から小杉の左官宛てに伝達した文書も残っています。


  「太子講中寄合帳」(たいしこうじゅうよりあいちょう)

    天保四年(1833年)から書き始められた記録で「太子講中寄合帳」があります。
    この太子講は職人の守護神である聖徳太子を祀って、平成五年まで、160年も
   続けられた講です。
   当時から小杉町でも三ケの上新町や水源町に左官が多く住んで いましたので
   三ケの真福寺さんに太子講の時はお経を読んでもらっていました。
    聖徳太子の掛け軸や三宝なども預けていました。

     この講は、当初、壁屋27名、桶屋2名、石屋1名の計30名でスタートし、
    毎年1月22日(聖徳太子の忌日)に集まり、職人同士の親睦をはかり、
    工賃の取り決めなどをしていました。
    また、病気で働けなくなった仲間に見舞金を出したり、
    頼母子講として金融組合の役割も果たしていました。

    この太子講中寄合帳の明治24年のところに、
    仲間の一人が講のお金を借りたまま夜逃げをしてしまったので、
    当番の二人がその分を立て替えたという記録があり、
    相互扶助の体制がこまやかだったことがわかります。
    

  「小杉左官共同組合」

    旧来の太子講の組織では時代の変化についていけなくなり、
    昭和21年になると小杉左官共同組合が設立されました。

     この名称は頭に「小杉」とついていますが、
    当時の老田村(現富山市)や大島町、大門町、作道(現射水市)、
    中田(現高岡市)の左官も参加していました。
    設立の趣意書には次のようなことが書いてあり、
    左官仲間の強い絆が変わっていないことがわかります。

    「今や建国以来の最大国難に遭遇し、思想の混乱、物質の欠乏、失業者の
    激増により国民は焦燥失意に沈まんとする時、ここに私たちは旧来の組合を
    解散し、新文化建設のため左官共同組合を組織し、私たち職人相助け、
    修養を積み、技術の向上を励み、・・・・・(後略)」


  「射水左官組合」

    その後、昭和28年には「射水左官組合」と改名し、
    昭和50年には追憶」と題した創立30周年記念誌を発刊しています。
    これに載っている組合員名簿によりますと、三ケ上新町在住の左官は
    6人しかいません。

    このようにして、小杉町の左官は永年にわたり、お互いに切磋琢磨し、
    強い絆で助け合ってきましたが、名工竹内源造を生み育てた一番の功労者は
    竹内平右衛門(通称勘吉)です。

   下の写真は勘吉の作で、小杉町十社宮にある「二十四孝大舜の図」です。
   相当な技術だったことがわかります。



    勘吉は天保元年(1830年)に生まれ、大正五年(1916年)に亡くなりました。
    明治の新聞に何度か登場しますので、紹介しましょう。
  
   ☆ 明治32年3月2日・・・・・北陸政論
      射水郡小杉町の左官竹内儀七・竹内勘吉・高木義一等は明年の連合
      共進会に壁細工にて作りし人物を出品せんとて、今よりその準備をなし居る
      よしなり。

   ☆ 明治35年2月19日・・・・・富山日報
      小杉の左官竹内勘吉の壁細工、数十人の見習いを集める。

   ☆ 明治40年2月1日・・・・・富山日報
      小杉の左官山本新兵衛は桃色壁合わせ方、竹内甚太郎は寒中壁塗り方、
      竹内勘吉は磨き砂艶出し塗り方をそれぞれ発明す。

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